久米川囃子連(半纏)

KUMEGAWA.jpg     東京都東村山市久米川町に古くから伝わる東村山市指定無形民俗文化財「重松流まつりばやし 久米川囃子連」は、熊野神社と野際神社を拠点として活動しています。
 天保元年、所沢市に生まれた「古谷重松」が編み出した祭囃子で、所沢市を中心に、東京都北多摩、西多摩まで現在100数団体に伝承されています。
 東村山の祭囃子の各団体には、それぞれ山車があり、祭礼時は町内を山車でめぐります。祭囃子は町をめぐりながら、山車の上で実演をします。市民産業祭のときは、各山車が勢揃いするので、普段はあまり見ることのできない「ひっかわせ」を楽しむことができます。
 令和7年10月11日の熊野神社秋季例大祭から、久米川囃子連の新半纏の着用を開始しました。
 色は山車の舞台側に掛かっている暖簾の色と合わせて、えんじ色に変わりました。
 腰には久米川囃子連と角文字で入れています。
Arajukumachi dasi.jpg
雀の森氷川神社の山車蔵に保管されている新宿町の山車。
 一昨年までは三ツ輪の山車でしたが、鶴ヶ島市上広谷より譲り受けました、一回り大きくなった四輪の山車です。今までの山車は岸町一丁目に移転しました。
 福来会は新宿町1丁目から6丁目の有志の山車曳き手会です。隔年で2から4丁目、1と5と6丁目が山車を曳きますが、住人年齢の偏りの心配解消や、近い将来、街の中心部での山車披露のための盛り上げなど、揃いの浴衣で颯爽と運行します。
 新宿町囃子保存会は川越市では少数派の若狭流といわれています。歴史は古く、江戸時代菅間村より伝わり、寛永六年(1853年)創立しました。小中学生も練習していて、新宿囃子を伝承します。
 金茶の浴衣は、山車曳の会(福来会)、紺は囃子保存会です。

小川町 八和田神社(のぼり)

Ogawa Hatiwada.jpg        木枯し紋次郎のロケに使えるような、江戸時代から変わっていない雰囲気の神社、周りの景色です。県道奈良梨の交差点角に、ひときわ目立つ八和田神社の白い鳥居があり、斜め北東に長い参道がつづいています。
 八和田神社はもとは諏訪神社といっていました。明治22年に上横田・下横田・中爪・奈良梨・能増・高見・伊勢根・高谷の八か村が合併して八和田村となったので、この諏訪神社は村社八和田神社と改まりました。
 この神社の鰐口(参拝者が神仏への来意を告げるために打ち鳴らす金属製の道具)、延徳・弘治の銘を刻したもので、もと高坂村常安寺に延徳3年(1491)、大成と永順という人物により懸けられたが、その後弘治3年(1557)男衾郡鉢形錦入の新井土佐守によって寄進されたものだといいます。
 『新編武蔵風土記稿』にその鰐口の絵が載っています。境内には下の写真の杉の大木があり、目通り、5.7メートル、高さ30メートルにおよび、樹齢800年といいますから、鎌倉幕府成立のころから現在に至っていることになり、その間の歴史を見つめてきた杉なのです。  
 町指定天然記念物になっています。また神社手前右手には神社のものと思われる池がありました。

文化橋町の屋台(半纏)

文化橋町.jpg      鹿沼秋まつりは今宮神社の秋の例大祭です。
 日照りが続き大旱魃となった1608年、今宮の神に雨乞いをし、雷雨が起こったことに感謝して鉾や榊を奉納したのがはじまりといわれています。氏子町が持つ絢爛豪華な彫刻屋台に囃子方が乗り込み、威勢の良いお囃子とともに町を曳き回します。ユネスコ無形文化遺産や国の重要無形民俗文化財に指定されています。
 文化橋町 鹿沼文化2年(1805)に、御成橋西際やや南から黒川の水を引いて、    鹿沼宿の東から東南に広がる田の用水路をつくる工事が始まった。
 文化用水と称し、今は木島用水(堀)と名を変えている。
 旧帝国繊維西工場の南西端に接して架けられた文化橋の名は、文化用水に架けられたことから由来している。
 その歴史ある橋名から、文化橋町と名づけられた。
 大正13年から今宮神社の付け祭に参加、戦後は宇都宮から屋台を借りていたが、市制10周年を期し、昭和33年に花屋台(白木屋台)が新造された。
 平成10年、宇都宮在住の彫師、辻幹雄(創型会所属)により、鬼板(おにいた)と懸魚(げぎょ)が取り付けられた。
 
 半纏の腰柄には、屋台の周りを取り囲むように朱塗りの橋が架かっていますが、これを図案化しました。衿の首裏側(チリケ)には提燈の柄の蝶の図案が白抜きされています。
 中睦.jpg来たHUB様の記事より抜粋です。

 練馬区中村にある中村八幡神社では、2025年も例大祭が開催されます!(9月13,14日)。

 江戸時代前半に築かれた歴史ある本殿を誇る神社で、400年近く続く伝統の祭りを体感できます。例大祭では、神社の氏子地域を練り歩く勇壮な神輿渡御がメインイベント。威勢の良い掛け声と、地域住民の熱気に満ちた神輿の行列は圧巻です。

神輿渡御以外にも、境内には多くの屋台が立ち並び、焼きそばやたこ焼き、わたあめなど、子供も大人も楽しめる様々な屋台グルメが勢ぞろい。さらに、日本の伝統芸能である神楽の奉納もあり、神々への舞を通して五穀豊穣や無病息災を祈願します。

歴史と伝統、そして活気に満ちた中村八幡神社の例大祭は、練馬区の秋の風物詩として、多くの人々を魅了し続けています。家族連れで、友人同士で、ぜひこの機会に訪れて、日本の伝統文化に触れてみませんか?

例大祭のメインイベントである神輿渡御は、氏子地域を巡行する神輿の行列です。氏子たちが威勢の良い掛け声とともに神輿を担ぎ、地域全体が一体となって祭りを盛り上げます。 神輿の勇壮な姿と、沿道からの熱気あふれる声援は、まさに圧巻の一言。 練馬区中村の街に響き渡る掛け声と、神輿の渡御は、この地域に息づく伝統と活気を象徴する、見逃せないイベントです。

奏番衆(半纏・帯)

 奏番衆.jpg     奏番衆は、和太鼓奏者・西野恵によって2023年に結成された和太鼓グループです。
  西野 は、御諏訪太鼓七代目宗家・小口大八に師事し、伝統的な技法を受け継ぎながらも、和楽器 と洋楽器を融合させたユニット「鼓絆(こはん)」の中心メンバーとして、国内外で幅広く 活動してきました。
   豊富な海外公演の経験を持ち、近年は後進の育成にも積極的に取り組んでいます。 
  奏番衆 は、そうした教え子たちと共に立ち上げられた新たな試みであり、伝統と革新の精神を体現 する演奏集団です。 現在は、神社での奉納演奏をはじめ、地域の祭事や文化イベントなど、さまざまな場で演奏 活動を展開しています.
 写真は2025年7月19日、よさこい祭りin光が丘公園での演奏です。
 半纏 着丈100cm身幅70cm  綿紬

東松山夏祭り 松葉町青年会 手拭い

松葉町手拭い.jpg   
  旧松山宿の総鎮守として創設された氷川神社(後に松山神社と改名)の末社である八雲神社で、夏の悪霊除けを願い夏まつりが例祭として執り行われたのが始まりです。現在、東松山市の夏まつりとして定着しています。
  まつり期間中は、大天王神輿渡御や各町内の神輿、山車が練り歩きます。山車が出会った時に行われるお囃子と踊りの競演、ヒッカワセが見どころです。
 手拭い 生地は特岡、100cmです。

久喜提灯2025.jpg   久喜提燈まつり「天王様」は、旧久喜町の鎮守である八雲神社の祭礼です。

天明3年(1783年)の浅間山の大噴火で、桑をはじめ夏作物が全滅したことによる、生活苦、社会不安などを取り除くため、祭礼用の山車を曳き廻して豊作を祈願したのが始まりと伝えられ、240余年の歴史と伝統を誇る祭りです。

祭りは毎年7月12日から18日に行われます。7町内から7台の山車が繰り出され、昼間は、神話などから題材をとった人物の人形を山車の上に飾り立て、町内を曳き廻します。夜は、人形を取りはずし、山車の四面に約500個の提燈を飾りつけた、提燈山車に早変わりします。

この提燈山車は夏の夜を彩るイベントとして最大の見どころとなっています。町内の若い衆が、賑やかな笛や鉦・太鼓のお囃子にのせ、関東一と言われる山車を回転させたりして、市内を巡行する様はまさに圧巻です。

夜は、四面に提燈をつけた山車を曳き廻します。
午後8時すぎには、久喜駅西口ロータリーに、提燈山車が集合して、山車をぶつけあったり、回転したりします。久喜駅西口周辺は多くの見物客で賑わい、祭りにおける一番の見所となっています。

上田市別所温泉観光協会(半纏)

別所温泉.jpg  長野県最古の温泉地『別所温泉』は、文化庁の「日本遺産」に認定された上田市・塩田平の西側に位置します。温泉は、厄除観音として有名な「北向観音」の地下から湧き出る弱アルカリ性の"美人の湯"。13の温泉旅館や3つの外湯(共同浴場)などが集結しています。
『別所温泉』の由来は諸説あり、ヤマトタケルが発見したとの伝承や、枕草子に登場する「七久里の湯」が起源との説も。平安時代、鬼女退治に訪れた平維茂が北向観音に参詣し、後に成功を収めたことから、別業(別荘)を建てた場所=別所と呼ばれるようになったといわれています。

『別所温泉』含む一帯は"信州の鎌倉"と呼ばれ、神社仏閣が点在し、数々の文化財に触れることができます。レトロな温泉街を巡り、美人の湯を堪能しながら、情緒あふれる温泉旅をお楽しみください。

海野町 (2).jpg  海野町(うんのまち)商店街は長野県上田市にある小さな店が並ぶ明るい商店街です。真田家で有名な上田城の城下町でありながら、上田駅から徒歩10分と便もよく、地域の皆様に愛されてきました。

 江戸時代から上田の祭礼で最も盛大に行われてきたのが祇園祭です。流行病が出ないように牛頭天王〔こずてんのう〕に災厄消除〔さいやくしょうじょ〕を祈願する祭りですが、この日を城の安泰を願う城祭としても力を入れたと伝えられてきました。松平氏に交替してからは、藩主在城の時に執行したいと願い出て、一段と華やかさを増していきました。


「お舟の天王山車」は、かつては常田から海野町を通り、大手門の中へ練り込むお祝のメインとして、寛政十二年(1800)大工棟梁〔だいくとうりょう〕箱山藤吉ほかによって造作され、明治維新前までは鉾〔ほこ〕・囃子〔はやし〕と共に曳〔ひ〕き廻〔まわ〕されました。全長8.6m、幅2.1m、高さ5.1mの舟の下には枠が組まれて、左右二個の車がつけられています。


舟の中央に黒漆塗〔うるしぬり〕の四本柱が立ち、唐庇〔からひさし〕の屋根で覆われています。四面の欄間〔らんま〕には金龍の彫刻がもつれ合い、天井には鳳鳳〔ほうおう〕が羽根を拡げて雲間を舞う姿が表現されています。


この山車は江戸中期のものとして典型的なものですし、藩政時代には藩主の厚い保護がありました。信仰の裏付けによって祇園祭の花形として、現在まで形を留めている意義は大きいものです。

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