2025年11月アーカイブ

久米川囃子連(半纏)

KUMEGAWA.jpg     東京都東村山市久米川町に古くから伝わる東村山市指定無形民俗文化財「重松流まつりばやし 久米川囃子連」は、熊野神社と野際神社を拠点として活動しています。
 天保元年、所沢市に生まれた「古谷重松」が編み出した祭囃子で、所沢市を中心に、東京都北多摩、西多摩まで現在100数団体に伝承されています。
 東村山の祭囃子の各団体には、それぞれ山車があり、祭礼時は町内を山車でめぐります。祭囃子は町をめぐりながら、山車の上で実演をします。市民産業祭のときは、各山車が勢揃いするので、普段はあまり見ることのできない「ひっかわせ」を楽しむことができます。
 令和7年10月11日の熊野神社秋季例大祭から、久米川囃子連の新半纏の着用を開始しました。
 色は山車の舞台側に掛かっている暖簾の色と合わせて、えんじ色に変わりました。
 腰には久米川囃子連と角文字で入れています。
Arajukumachi dasi.jpg
雀の森氷川神社の山車蔵に保管されている新宿町の山車。
 一昨年までは三ツ輪の山車でしたが、鶴ヶ島市上広谷より譲り受けました、一回り大きくなった四輪の山車です。今までの山車は岸町一丁目に移転しました。
 福来会は新宿町1丁目から6丁目の有志の山車曳き手会です。隔年で2から4丁目、1と5と6丁目が山車を曳きますが、住人年齢の偏りの心配解消や、近い将来、街の中心部での山車披露のための盛り上げなど、揃いの浴衣で颯爽と運行します。
 新宿町囃子保存会は川越市では少数派の若狭流といわれています。歴史は古く、江戸時代菅間村より伝わり、寛永六年(1853年)創立しました。小中学生も練習していて、新宿囃子を伝承します。
 金茶の浴衣は、山車曳の会(福来会)、紺は囃子保存会です。

小川町 八和田神社(のぼり)

Ogawa Hatiwada.jpg        木枯し紋次郎のロケに使えるような、江戸時代から変わっていない雰囲気の神社、周りの景色です。県道奈良梨の交差点角に、ひときわ目立つ八和田神社の白い鳥居があり、斜め北東に長い参道がつづいています。
 八和田神社はもとは諏訪神社といっていました。明治22年に上横田・下横田・中爪・奈良梨・能増・高見・伊勢根・高谷の八か村が合併して八和田村となったので、この諏訪神社は村社八和田神社と改まりました。
 この神社の鰐口(参拝者が神仏への来意を告げるために打ち鳴らす金属製の道具)、延徳・弘治の銘を刻したもので、もと高坂村常安寺に延徳3年(1491)、大成と永順という人物により懸けられたが、その後弘治3年(1557)男衾郡鉢形錦入の新井土佐守によって寄進されたものだといいます。
 『新編武蔵風土記稿』にその鰐口の絵が載っています。境内には下の写真の杉の大木があり、目通り、5.7メートル、高さ30メートルにおよび、樹齢800年といいますから、鎌倉幕府成立のころから現在に至っていることになり、その間の歴史を見つめてきた杉なのです。  
 町指定天然記念物になっています。また神社手前右手には神社のものと思われる池がありました。

文化橋町の屋台(半纏)

文化橋町.jpg      鹿沼秋まつりは今宮神社の秋の例大祭です。
 日照りが続き大旱魃となった1608年、今宮の神に雨乞いをし、雷雨が起こったことに感謝して鉾や榊を奉納したのがはじまりといわれています。氏子町が持つ絢爛豪華な彫刻屋台に囃子方が乗り込み、威勢の良いお囃子とともに町を曳き回します。ユネスコ無形文化遺産や国の重要無形民俗文化財に指定されています。
 文化橋町 鹿沼文化2年(1805)に、御成橋西際やや南から黒川の水を引いて、    鹿沼宿の東から東南に広がる田の用水路をつくる工事が始まった。
 文化用水と称し、今は木島用水(堀)と名を変えている。
 旧帝国繊維西工場の南西端に接して架けられた文化橋の名は、文化用水に架けられたことから由来している。
 その歴史ある橋名から、文化橋町と名づけられた。
 大正13年から今宮神社の付け祭に参加、戦後は宇都宮から屋台を借りていたが、市制10周年を期し、昭和33年に花屋台(白木屋台)が新造された。
 平成10年、宇都宮在住の彫師、辻幹雄(創型会所属)により、鬼板(おにいた)と懸魚(げぎょ)が取り付けられた。
 
 半纏の腰柄には、屋台の周りを取り囲むように朱塗りの橋が架かっていますが、これを図案化しました。衿の首裏側(チリケ)には提燈の柄の蝶の図案が白抜きされています。

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