kitatajima1.jpgkitatajima2.jpg川越市北東部に芳野、北田島という田園地帯があります。川越氷川神社の末社ですが、名もない、しかし長い歴史のある稲荷神社です。しいて言えば北田島稲荷神社でお守りしているのは一帯の氏子20世帯です。

この度、社殿新改築に伴い奉納幕を作っていただきました。代紋は氷川神社の雲菱というものです。

松本醤油商店(半纏、のれん)

 

DSC00073.jpgDSC00071.jpgDSC00072.jpg    初代松本新次郎(まつもとしんじろう)が明治22年(1890)、川越を代表する豪商だった横田五郎兵衛(よこたごろべえ)の分家を購入し、同時に醤油製造業も引き継いだのが「松本醤油商店」のはじまり。創業以来、国産の良質な丸大豆と小麦を原料とし、伝統的な製造方法で醤油づくりを続けています。通りに面した店蔵は川越では数少ない白漆喰(しろしっくい)仕上げで、川越市の文化財にも指定されています。


天保(てんぽう)元年(1830)に建てられた「天保蔵」と呼ばれる木造の蔵には、当時からある巨大な杉桶が約40本並び、熟練した職人の手で醤油がつくられています。自然の温度変化にまかせた天然醸造で、1年または2年の時間をかけて熟成・発酵させることによって深い旨みが出るのだとか。手間と時間をかけた手づくりの醤油は、味も香りもすぐれた逸品です。「天保蔵」は川越市の都市景観重要建築物に指定されています。

代表的な商品は、“再仕込み”という方法で2年間熟成させた、深みのある「はつかり醤油」、木桶で1年間熟成させた「天保蔵醤油」、まろやかな甘味が特徴の「甘露(かんろ)醤油」など。プロからも高く評価され,川越の老舗料亭は基より全国で好評です。

半纏は、生成りの綿紬生地を使い、紺染めです。衿裏の紋は「鴫」シギとあり、昔この町は志義町または鴫町といわれたゆえんです。

「道」テーブルマット

miti.jpg 新井様御母堂の3回忌の記念にテーブルマットのご注文をいただきました。以前お母様の書かれた「道」に可愛い足跡をデザインして、93年の人生をひたすら歩んだ様子をあらわしました。サイズは33*50cm(左右房を含む)。厚い帆布を硫化染料で染めました。テーブルマット、テーブルセンター、ランチョンマットなど色々な呼び名がありますが、プレースマットが正しいらしいです。

プレースマット(place mat)は、食事の際に食材をのせたナイフフォークスプーン等を置くための。日本ではランチョンマットとも呼ばれる(ランチョンマットは和製英語)。

テーブルクロスがテーブル全体を覆うものであるのに対して、プレースマットはテーブル全体を覆うわけではなく食事をとる各人にそれぞれ個別に敷いて用いられる。

布製のもののほか、木製やプラスチック製のものもありますね。

大宮光陵高校剣道部(手拭い)

序破急.jpg 

今年開校31年を迎えた埼玉県立大宮光陵高等学校 剣道部様より手拭いの注文をいただきました。
100cmの長さで、ブルー地に「序・破・急」と白で染め抜きです。
平成28年は

・インターハイ県予選会に男女個人,男女団体が出場しました。

・関東大会県予選会に個人男子1名,女子団体が出場しました。

 

切り返し・基本打ちなどの基礎練習から応じ技・地稽古(部内試合)まで幅広く行っています。少人数なので、基本的に稽古は男女合同で行っています。また,他校,他団体との合同練習にも積極的に出向いています。

 

 

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日本の伝統文化は国際的にも年々評価が高まり、エコロジーブームも相まって扇子や着物などの愛好家も増えています。
多くはその成り立ちとともに注目されますが、そうしたアイテムが広まった背景を知っている日本人はそれほど多くありません。
お祭りに欠かせない装束、法被についても同様です。

現代に受け継がれた日本の文化、法被が生まれた背景、その歴史をご紹介しましょう。
 

日本の身分制度が「法被」から「半纏」を生み出した

明治時代に廃止されるまで、日本にも厳正な身分制度がありました。
最上位に皇族があり、その下に支配階層と平民のすそ野が広がっていたのです。

その垣根が緩やかになったのが江戸時代のこと。長く続く太平の世が町民文化を豊かに成長させ、支配階層が独占していた文化や風習を一般に普及させたのだと考えられます。

「法被(はっぴ)」と「半纏(はんてん)」は混同されがちですが、それもまた江戸時代に武家文化と町民文化が歩み寄った結果です。
もともと武家専用の衣装として生み出された法被は、平民は着用できませんでした。
そのため法被に近い見た目の半纏を新たに作って平民用としたのですが、江戸時代が長く続くうちに「法被」と「半纏」の境目はどんどんあいまいになっていきました。

法被と半纏の違いは?

お祭り装束に見る日本の文化……法被はなぜ生まれたのか?

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法被の語源は平安時代の公家装束から来ているという説が有力です。
今で言うところのアウターが「袍(ほう)」で、その下に着用したものこそが「半臀(はっぴ)」でした。

仏教の高僧が背もたれにかける布も「法被」と呼ばれます。
文字の共通点からすると仏教に由来すると考えるべきかもしれませんが、こちらは衣類としての「法被」とは無縁なのではないかと言われています。

法被は羽織に似たつくりをしており、襟の折り返しと胸紐、背中と裾回りには家紋が配置されています。
これに対して半纏は襟の折り返しがありません。

かつては武家以上が着用していれば「法被」。
平民が着用していれば「半纏」として分けていました。

半纏はいつから着用されるようになったのか

法被の普及が進んだのは江戸時代でした。
江戸幕府の財政逼迫は有名ですよね。

当然、武家が贅沢できる情勢ではなく、どんなに見栄を張りたくとも羽織を作れない、そんな家が多かったそうです。
法被は丈が短いので布の消費量が着物よりも少なく、羽織よりも廉価に仕立てられます。
「武士は食わねど高楊枝」を貫こうとした武家にとっては複雑な心持ちになるアイテムだったのかもしれませんが、皮肉なことにこれが武家装束の象徴となりました。

これに対して、半纏については正確な始まりが分かっていません。
法被が普及する以前から職人などの間で「印半纏」として広まっていたという説もあります。
そうなると半纏の方が法被よりも古い歴史を持っているとも考えられますが、もともと平安時代の公家装束が由来だとするならば、 高貴に占有される「法被」の方が先に生まれたことは間違いないのではないでしょうか。

そして、江戸時代の花形とされる火消しが「半纏」をまとったこと、そこから流行が始まったことは確かです。
職人などの限られた平民だけではなく、広く一般に普及した時代についてはやはり江戸時代なのでしょう。

いかがでしたか?
半纏が生まれた歴史的背景をご紹介しました。
現代日本のお祭り風景に見られる半纏は、ほとんどが「印半纏」です。
しかし、中にはきっちり胸紐まで結んだ法被姿も混ざっているかもしれません。

お祭りに出かけた際にはぜひ注目してみてください。



 

 

大豆工房みや(のれん・幕)

 埼玉県越生町は秩父山地の始まる所で、別名「梅の里」。山深く、梅林の広がる自然豊かな土地です。山々からの水を集める地区独自の貯水場があり、とうふ作りには欠かせない、おいしい水が豊富な地域です。
 大豆工房みやの作る「豆乳と一緒に食べる豆腐 越生美人」は2015,2016年と2年連続でモンドセレクション金賞を受賞した、ここでしか手に入らない豆腐の逸品です。
 名水あるところ酒造りと密接に結びついていますが、「みや」のある梅林の中の環境は酒も豆腐もまさに最適地であると思います。

心と体が健康でいられる食品作りを目指したい!と先代が始めた。消泡剤、膨張剤等の化学薬品を一切使わず、大豆、にがり、水だけの力で中身勝負の豆腐作りが特徴.

昨今の柔らか志向に逆らい、創業以来の固い木綿豆腐に頑固にこだわり続ける。大豆のギュッとした旨味をかみしめていただきたい、とのこと。

原材料は国内食料自給率アップに役立ちたいとの思いから国産大豆のみ使用(大豆は主に栃木県、佐賀県、埼玉県産)(にがりは、伊豆大島、沖縄の海水にがり)。

安心、安全は当たり前、「もっと美味しく」を今後も追求するということです。  miya.jpg

 

 

CiYvMw8VEAA_I9a.jpg   若獅子会では、私たちと一緒にライオンズの応援をしてくれるメンバーを募集しています!

 

「応援団ってどんなことするの?」

「トランペット吹いたことないけど大丈夫?」

「全試合行かないといけないの?」

「学校・会社と両立できるの?」

「応援団員は普段何してるの?」  などなど・・・

 

気になることや質問があったら、

まずは、「若獅子会」のハッピを着た団員に気軽に声をかけてください!

 

※事前に応援団の活動についてしっかり説明をします。その上で入団するか決めていただきます。声をかけたからといって、強制的に入団とかありませんので、ご安心を!

 

入団したら、先輩団員が全力でサポートします!

 

 

※お問い合わせは、西武プリンスドームで試合が開催される日に応援団員に直接声をかけていただくか、下記のメールアドレスまでお願いします。

若獅子会事務局 : info@wakajishi-seibulions.com

高麗郡建郡1300年(手拭い)

 朝鮮半島からの渡来人を集めた旧「高麗郡」が日高市周辺にできてから、今年で1300年を迎えたことを記念する式典が5月21日、同市の「日高アリーナで」で開かれました。式典には日韓関係者2500人が参加し、日高高校の生徒ら26人が高句羅古墳壁画をモチーフにした色鮮やかな古代風衣装をまとって行進し、長い歴史をかみしめました。
 今後、漫画家の里中満智子さんが講師を務める「渡来人の里フォーラム」(六月十九日)や公開歴史講演会(七月三十一日)、馬射戲(まさひ)騎射競技大会(十一月二十六、二十七日)、高麗郡建郡1300年歴史シンポジウム(十二月十八日)などもあります。問い合わせは市産業振興課=電042(989)2111=komaguntenugui.jpg

  青梅大祭はゴールデンウイーク最中の5月2、3日に行われました。
青梅大祭に参加する23の囃子連のうち、19団体が集まって構成されているのが青梅囃粋會(おおめそうすいかい)です。電灯芸能の継承はもちろん、地域活性化のためのさまざまな活動も展開中。お祭りをさらに盛り上げていこうとの意気込みに燃えています。
 裏宿町の山車は町内の鎮守である魔利支天(まりしてん)の言い伝えを各所にデザインし、平成元年に新造されました。踊りは天狐お囃子は「裏宿囃子連」です。
 半纏は江戸伝統模様の籠目(かごめ)柄といい、水色地に黒で大きくはっきりとデザインしています。背紋はオレンジと白で囃子と表しています。

お釈迦様 坂鶴若鳶会(半纏)

DSC00042.jpg     DSC00049.jpg     例年5月5日こどもの日に、坂戸市の永源寺で釈尊降誕祭が行われます。

 永源寺は、江戸時代初期に開基されたと伝えられる曹洞宗の寺です。
 その後、文化10年(1813)黙室良要禅師が永源寺二十世の住職となり花祭りが盛行し、「坂戸のお釈迦さま」として知られるようになったようです。
 本堂前の花御堂の誕生仏に甘茶をかけて、無病息災、家内安全、商売繁盛を祈願します。市内外から多くの人が訪れにぎわいを見せます。
 半纏は坂鶴階子(さかつるはしご)という、坂戸市、鶴ヶ島市の若鳶組合が出初式に着るものです。地紋は算盤柄、または釘抜き柄といわれるものでしょうか?階と子を一文字で梯子と読ませるなんて昔の人のセンスは粋ですね。

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